越智敏夫
(新潟国際情報大学・市民文化フォーラム運営委員)
今年も8・15集会にはたくさんの人に集まっていただいた。参加された方々、また広報などに協力していただいた方々に深く感謝したい。「平和のための準備 PART2――連帯をとりもどす」と題して、全体の形式は昨年度から引き継ぎながらも、平和について新たな視点から考えようという企画となった。「私からの出発:<個>の存在証明」、「国境をこえる連帯;平和コミュニティの可能性」という二部構成にしたのは、現代社会において個人が個人として生きていくことがいかに困難であるかということを再確認したうえで、その個人の苦境を救うための横のつながりを模索するという、単純ではあるけれど非常に困難な道すじを考えるためだった。
第一部、第二部ともにパネリストの真剣な発言によって現場からの熱い報告と冷静な分析や批判がうまく融合した内容になったのではないかと思う。しかし会場で構想されたような「個の存在を前提とした連帯」は現実では常に困難に直面する。あたりまえのようなことかもしれないが、この古くて新しい命題について観念的にはプラトンの昔から形をかえて延々と語られてきた。この点に関連して当の8・15集会においても個人的には非常に印象に残ることがあった。小さなことかもしれないが、大きな問題を考えるためのきっかけにはなるかもしれない。そのことについて考えてみたい。
二部構成の前に基調講演として日高六郎さんが話をした。熱が入り当初の予定をこえて話された。最後は「こんな時代だからこそやるべきことはあるはずです。その行動について話そうと思ったけれど時間になりましたので」と話を打ち切った。そのとき「その何をすべきかについて話してください」という声が会場からあがり、「もっと日高さんの話が聞きたい」と同調する他の方の声も重なった。「あとの予定もあるので」と司会が進行しようとしたら、「時間、時間というのはファシズムです」という意見が出た。その場では司会が日高さんの体調などを説明しておさまった。こういうことは集会ではよくあることだ。講師が時間を超えて話したり、会場から声(場合によっては野次)があがったり。しかしあの場ではとても強い二つの違和感をもった。
まず第一は時間を守るのがファシズムだということについて。こちらで予定していた進行を乱すなと言っているのではない。内容によっては、また他の発題者の同意などを得れば、そういう変更は「あり」だと思う。しかし集会は限られた時間のなかでおこなわれる。誰かの話を延ばすということは他の誰かの時間を削るということだ。その誰かの話を聞きたくて来た人もいるかもしれない。自分が聞きたい人の話をもっと聞かせろと言うことは、他の人の要望を否定することになる。にもかかわらず自分の要求だけを「反ファシズム」を根拠に通そうとする。自分の嫌いなことを「ファシズム」だと非難しつつ、自分の立場は「デモクラシー」だとするこうした行動パターンが戦後日本の市民運動につけた傷跡は大きいのではないか。
第二に、こちらのほうがより深刻だと思うが、「何をすべきか教えてほしい」という意見について。基調講演後の第一部の司会として最初に話したように、会場で書いてもらったアンケートについては運営委員全員がかなり時間をかけて読んだうえで、企画について討議している。アンケートはすべて貴重な意見である。その昨年度のアンケートのなかには「何をすべきかもっと具体的に教えるべきだ」というものが散見された。そして今年の日高さんの基調講演に対してもほぼ同様な要望が会場から出された。
しかしこうした市民集会は何らかの答え、あるいは唯一の行動指針を提示するための場なのだろうか。たとえば日高さんが何か具体的な行動を示せば、みんなそれに従うべきなのだろうか。「えらい大先生」が「本当の答え」を指し示し、他の一般市民にはそれを受容することだけが求められるとすれば、それは悪夢である。市民運動はそういう「上意下達」式の意思伝達を基本原理とするものとは異なるもののはずだ。
石原慎太郎が東京都民の最大多数から支持を得ているという現下の状況で何をすれば良いのか。そのための絶対的な解答などあるはずがない。あるのなら、とっくにみんなやっている。それがないからこそ市民各自がそれぞれの場で何をすべきか考え、そのうえで各自が行動する。その先に何らかの共同性を目指すしかないだろう。その先の地点にしか「個の存在を前提とした連帯」はないと私は考えている。
posted by 市民文化フォーラム at 17:33|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
コラム
|

|